日月日誌 hitsuki nisshi  

来し方行く今と日々のアーカイブとして綴っています

情に流されやすさは、私の弱さであった。

帰国してから1週間不調がつづいたけれども

1週間したとたんにすっかり元気になった。

 

不調があったために、冷静に観察できていなかったものの、

自分の身体感覚及び、自分について思うことが、

なんだか、ほんとうに

ガラリと変わってしまった。

 

とにかく、様々なことが

どうでもよくなった。

 

自分の不得手、自分に欠けていること、自分の将来、自分の過去、自分の愚かさ、

おおよそ、自分について

カクカクシカジカであったほうがいい、

そうありたい、

そうでなければならない、

のようなことへの執着がなくなった。

 

霊的に向上したい、神様とより深く、より強く繋がりたい

という気持ちは更にさらにましているけれども

だからといって、自分の欠陥をなんとかしようとか

そういうことは必要なく思える。

 

そういうことをやるまえに、

すこしでも、一人の時間をつくり、自分に嘘をつかずに、

祈る時間、神を思う時間、身体を整える時間をもつことだ。

 

それが積み重なった時にはじめて、

それは外側に溢れてくるだろう。

それまでは、軽んじられようが、うまくいかなかろうが、

どうだっていいのではないか。

 

ごまかせないのは、神と自分だけだ。

 

 

さらに言えば、どーでもよさは

どうやら他人との距離を縮めることに繋がっているらしいのだ。

 

自分がどうでもいいので、他人から隔たる必要があまりない、

ということなのかもしれない。

(いや、そりゃあ、あんまり近づきたくないひとはまだまだたくさんいますよ)

 

 

それから、今日ふとしたときに

言葉となって自分の中にこだましたことがある。

それは、

「私の情に流されやすさは、私の弱さであった」

というものです。

 

あんまり説明するようなことではないかもしれないけれども、

情に流されていては、ここから先には行けないな、ということがわかった。

 

去る者は追わない。

 

来るものはだいたいは受け入れるがたまには拒む。

 

他者に影響を与えようなんて、これっぽっちも思わないことだ。

 

いつも踊りの先生が、

「(人を)切るということは、同時に切られる、ってことだからね。

親は裏切っても、他人は裏切っちゃいけない」

と事あるごとにくりかえしていて、

わたしのなかにうえつけられた恐怖感がずっとあったのだけど、

 

それも消失した。

 

この世に会って「別れ」っていうのは、これはもう、仕方のないことなんだ。

 

得るものがあれば、失うものが在る。

 

得るものを損得で考えてはならない。

 

失うことを怖がってはいけない。

 

どんどん失い、どんどん得よう、そしてまたどんどん失うのだ。

 

死ぬときには、何一つ物質的なものなど持って行けないんだから。

 

死ぬときに持って行けるのはたったひとつ、この肉体で得た経験だけなんだから。

 

本日はこういう気分です↓ 

(超ひさびさにカラオケに行ったからでしょうか。)

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