日月日誌 hitsuki nisshi  

来し方行く今と日々のアーカイブとして綴っています

つれづれなるままに

昨日は、ヨガの先生宅で、マントラを皆で唱える会があった。

ジャパ(聖名を唱えること)は日常になりつつあるけれど

惰性になってしまったりして^^;

 

とりわけ、日本では日常で目にする機会も葬式くらいでしかないから・・・^^;

やりこんだひとのジャパを近くで感じるのは刺激になるし

こういうペースでやればいいんだなぁってわかったり

人とやることでエネルギーも感じやすかったりする。

昨日は部屋がパキパキ鳴っていた。 

 

悟りを得るのに修行はいらない、ただ真我にとどまればいい

というのはたぶんほんとうだと思うのだけれど

すこやかであること、

自分を知ること、コントロールすること、

いつも神様に向かっていられるようにするには

よわっちい私にとっては

瞑想やジャパや祈りや身体の修行がどうしても必要だし

それをやっていたほうが、健やかで元気で楽しいってところにいきついた。

修行と苦行は別物だ。

そして修行と悟りは別物だ。

ってことを知っていればいいと思う。

でも手放しで真我に留まれる人なんているんだろうか?

いたら教えを請いたいよ。

 

そしてダンスってなんだろう、舞踏って何だろう、

なんでこんなにこだわってきたんだろうと考えていて

このあいだ急にそれに対する答えをもらった。

舞踏は瞑想だしタントラなんだ、

相反するものをひとつにまとめあげること。

自分の中のカオスを観る事。

そっかーと自分の中で納得した。

 

相反するものをちゃんと知って統合することができたときに

ものごとは全体を見せてくれるようになるんだと思う。

そして身体のなかにはそういうカオスが存在してる。

だから先生は「1を知れ、1を知ればあとはなんでもできる。

1を知らなければ何をやっても何にもならない」というんだとおもう。

 

でも、じゃあその1っていうのは、苦行を何十年もしなければ

みつからないのか、といえば

「ちがうよ、いまここにある、もっとも近くにある。もうあなたはそれを知ってる」

という答えがどこからか返って来るので

ほんとにやっかいだ。

いや、ほんとにシンプルだ。

ええ?どっちなの・・・?

というすばらしい混乱がやってくる。

 

さらに

神様は優しくて、愛にあふれて、すべての人を許す

というのは、ほんとうだけども

その愛し方というのは、人間の理解をはるかに超えたもので

人間から見たら超残酷でおどろおどろしい苦悩や絶望であったりするし

さらに、神様はジェントルマンだから、自分を求めない人には近づかない。

こちらから近づいていかないとならない。

だから、人はすべて救われているなんてことはない。

神様があると思っていない人に神様はない。

単純だ。

わたしたちだって、日常で神様がなくなることなんてしょっちゅうだ。

だから、常に意図していたいと思う。

 

すこしずつすこしずつ、

ほんとにもどかしい気持ちとともに

神様につうじる回路が開かれている実感はあって

それはとりもなおさず、自分に通じる回路がひらかれていくことだと思う。

前進はなく後退もなく、ただ神の恩寵だけがたよりという

このつかみどころのなさ!

すごいね。

 

でももっとこの世界の

神秘をしりたい。

自分がなんであるかを知りたいと思う。

 

そして、昔のI先生の文章を見つけた。

修行時代をほうふつとさせる今にはないくらいの厳しさがあって

なんかちょっとすごい。

http://taranath.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/post_9319.html