日月日誌 hitsuki nisshi  

来し方行く今と日々のアーカイブとして綴っています

moving on with you

何かに頼ろうとか、どうにかしてもらおうという気持ちが

なくなるってことは、いいことだと思う。

もはや、どこを見ても、頼れるものなんてない。

どこを見ても、正解もない。

 

すがっていいのは、神様だけで

正解を知ってるのは、神様だけ。

そして、その正解がまたとんでもないことだったりするのが

神様、ってやつだ。

いつか植原先生も

「I love you」(全て従います)っていうのは、神様にだけ言うもんだ、

と言ってたのを思い出した。

 

明治の聖者、弁栄上人は、

歩いても歩いても、下駄の歯が減らなかったので、不思議に思った弟子が

その理由を問うと、

「わたしは阿弥陀様におぶさっているのだから」

と言ったらしい。

ラーマクリシュナの熱狂的なカーリー崇拝もそうだし、

赤ん坊がお母さんにすがるみたいな気持ちで全部託せるのなら

下駄の歯は減らないんだと思う。

 

この話はほんとうだと思った。

 

 

ああ!そうなんだ、神様は、「実在」なんだ。

と思って、はっとする。

 

今日は、釈迦の誕生日。

バラの花をさしあげて、クムクムをつけさしていただきました!

(でもお釈迦様クムクムあんまり好きじゃなかったらどうしましょう(*´▽`*)

でもって、ゆっくりお経唱えました。

 

ほんとに、マントラってナーディーの通りを瞬時に良くしてくれる

魔法の回路を開く言葉だなあと実感する。

 

 

 

はてさて。

 

今日ひとり稽古をしていて、気づいたのだけど

踊りって、死者をひき連れているものなんだ、ってことだ。

死者を引き連れて、願わくば、光に化さんとす、

そういう気持ちがなければ、成立しないものなんだ。

そういうふうに思ったら、感じる世界の量がものすごい変わった。

 

闇の側にも加わる。そして、光の方にも向かう。

その両方が必要。

闇の側には死者だけじゃなくて、自分の埋もれてしまった感情や

どろどろした黒いものや、そういったものだってもちろん含まれていて、

そして、そういうのもまた、

光と化す胚を持っているんだ、ということだ。

 

そして、匂いや、記憶や、手触りや、色や、光や、闇や

そういう「むこうがわ」を取り入れる事が、踊りだけじゃなくて

生きる事そのものなんじゃないのかな、と思った。

忘れてしまっているだけで。

 

             ★★★

 

そんな「むこうがわ」しかない世界を描く人が居る。

・・・人が、居た。が正しい、、、

 

石牟礼道子さんの

『花びら供養』を読んだ。

少々値が張って、ええ、、、一瞬ためらいましたけどもね、、、

大事な本だけは、定価で、書店で買いますよ!

買い物は、投票だ!

 

えい!

 

で。

そこにはこうあった。

水俣に大学を作ろう、という話があり、その呼びかけ人に名を連ねてほしい

という依頼に対して、こう拒絶するんだ。

 

イ・私はこれを論ずる資質と能力がない。ものを書くということは

負の世界に居る事だと思う。プラスということは出てこない。

大学の創り方とは交差するところがない。余力も全然ない。

ロ・大学設置で水俣再生の手がかりが得られるという考えもあると思うが、

自分の居場所とは、別世界のこと。わたしの中のこの地は、あまりに傷が深く、

私の吐く息はそこまでは届かない

 

 

 大学は現実とあまりにかけ離れていて

「大学」という「プラス」とその現実が交差しない。

「マイナス」からしか、書くことが出来ない。

 

と、おっしゃる。

ここだけ抜き出すと、すごいバッサリした感じがあるかもしれないけど

とても丁寧な断りの文章で、終わりに「些少ですが、切手代を同送します」

とある。

 

世の中にある大学はみーんな「プラス」だ。

ここに含みこめられた「プラス」への非難をかんじるたびに

胸がぎゅうっとなる。

 

祖母は精神的な病をかかえていて、その祖母とよく一緒にあるいた

「神経どんの孫」

と呼ばれた石牟礼さんの描く世界は、

ものすごい豊潤だけど、おためごかしとか表面的な飾りが一切ない。

そして、ほとんどこの世を諦めている。

 

でも、その文章を読むと、昔はどれだけ「向こう側」との行き来があって

それがどれだけ豊かであったか、

ということに想いを馳せないわけにはいかない。

 

そして、ある一章には、水俣病に苦しんだ人の

「知らんちゅうことは、罪ばい」という言葉があててある。

もちろん、知識として知る、ってことじゃなくて、

現状のありのままを知ろうとしないことに対する非難なんだと思った。

 

ありもままを知るってことは、すんごく怖いことだ。

ベールをつけておいたほうが、楽だもん。

そして、心配しなくても、公にされることはほとんど

巧妙にベールがかけてある。

そのベールを自分でとるかどうかなんだと思った。

 

むかしの豊かな世界は、未開な世界といわれて、

敬遠され、なかったことにされてきたけれど

今、そっち側に戻っていかないと、手遅れになる。

という確信だけがある。

それで、無意識的にだけれども

いろいろと動ている部分も大きい気がします。