日月日誌 hitsuki nisshi  

来し方行くさき今の日誌

グアダルーペの聖母マリア。メキシコその4

一体私はどこに向かっているのだろうか。

今日は何となく現実社会で生きる「スイッチ」が押された気がしたのですが、

それは「聞いてくれる人」に恵まれたからだな…。

一体私はどこに向かっているのだろうか。っていうのは、自爆しないための自分への問でもあって、ちゃんと、現実に足を張って生きたい…。

 

話はまた飛ぶのだけれど、私の中に一番深くあるのは、アニミズムです。

、、、石にも葉っぱにも森にも動物にも神様はいる…という、それはあたりまえかもなのだけど、地元の山や川のなかで過ごした時間や、神社裏で犬や猫を拾って育てていたときや、裏山の山の神様に守ってもらっていると感じたことや、トーテムポールとインディアンに憧れていたときや、御嶽で木立の隙間から日が昇るのを見ていた時や、ヴリンダ―ヴァンで葉っぱの一枚一枚が「生き」てることが感じ取れたことや…

で、確信になっている私の核のような気がする。

「自然」の傍にいるときに、わたしは常に元気になる。

 

で、それはたぶんこの先もゆらがないと思うと同時に、ただ「たったひとつの根源的な神様」はあって、そこからはじまる世界に一緒に生きているんだよなとは想う。

それは何の信仰とも何の宗教とも対立しないという気がするから、わたしはひとり「これでいいのだ~!」と勝手にそう思っている。

だからわたしは、今もこれからも何の宗教にも属さない。

 

ですが。

ですがですね、

わたしはしいて言うならインド系なのに、なんでマリア様?とも思っていたわけです。なんか浮気性の甲斐性なしみたいじゃないか……と(^^;

だいいち、ヨーロッパを旅していても、マリア様に祈ることなんて、一度もしたことがなかったのに。

 

……ううむ。

 

ほんとに前置きが長いメキシコシリーズ(^^;

前回はこちらです。

線はいつしか交差する。メキシコその3 - 日月日誌 hitsuki nisshi

 

メキシコ最終日。

思いがけず自由な半日がやってきたのだった。

 

わたしが「それでは、実はグアダルーペの教会に行きたいのですが」と言うと、案の定、一人で出歩くのは危険だから、「テンプロ・マヨール」と「人類学博物館」にもう一人のスタッフとふたりで一緒にと行くべし、とお達しが来た。

はい! と言ったのち、相談のうえで「君も僕も自分が行きたいところに一番最初に行った方がいい」という察しのいい相方にめぐまれたお陰で、わたしたちはメトロの途中で別れ、4時間後に待ち合わせることにした。

テンプロ・マヨールにも間に合ったし、すごかったけど、いかんせんボリュームがありすぎて、次は一日かけてみたい)。

 

グアダルーペの寺院に着いた。

旧教会にも、新教会にも、もう人がいらっしゃったが、平日の朝早い時間だったからか混んではいなかった。教会のなかは、たくさんの人がいても、シンとしている。

そして、新教会の奥で、人々がみんな上を見上げているさきに、「マントに現れた聖母」の姿があった。なんかとてつもなくそこの場が「優しい」(うまい言葉がみつからない)。

みんな歩く歩道で行ったり来たりしている。

わたしは、写真を撮った。

 

そして、わたしはテペヤックの丘に行ってみたかった。

 

アステカの女神の場所であり、マリア様が現れた場所なんてとんでもないと思った。

階段を上っていく人はまばらだ。

ただ、登っていくと明らかに場所の気配が全然ちがうのが私にでもわかった。

小さな礼拝堂に着くと、簡易椅子がもうけられて、そこで何かが始まろうとしていた。わたしが去ろうかどうしようか悩んでいると、うしろから促されて、席に着いた。

言葉が全然わからなかった(ほんとうに残念だった!)。

ただ、司祭の方が飲み物を飲み、パンをひたしていたから、これは「ミサ」だろうと思った。

 

みなで祈りをささげた後、たぶん「隣の人と分かち合いなさい」的なことが言われたんだろうと思う。みんながそれぞれ、見ず知らずの前後左右の人と握手をして微笑みはじめたので、わたしもあわてて真似をして、何人かと握手をした。

 

そのあと、司祭が去るとすぐに、20人位の参加者が各々、前方に群がった。係りの人が、水を飛ばす。手持ちのグッズに水をかけて頂くためなんだと分かった。

わたしは下の教会でたまたま買って持っていた絵があって、それなら問題ないだろうとおもい、聖水を頂いた。さらにとっさにずっと手に持っていたマーラーを差し出していた。なんだか、すごく有難く思えた。

 持って行ったフィルムカメラが、テペヤックの丘で写真を撮った瞬間に終わったので、キリスト教徒でもないのに、何となく目的が果たされたような気持になって、同時になにかがとても、満たされた。帰りぎわにラーダ・クンドでふいたみたいな風がふいた。

 

で。

日本に帰国して、何日か時差ボケに苦しんでいるとき、一番最初にある方にさそっていただいたのが「聖母マリアの秘密」のお話会だったのには、びっくりした。

さらに、眼科で順番待ちをしていると、隣の人が各種マリア様のカードの本を読んでいて「グアダルーペのマリア」というところでページが停まる。

そんな不思議なシンクロが続いて、正直、どう解釈していいかわからなかったのですが…

『ピエドラ川のほとりで私は泣いた』を読んでいて腑に落ちてきたところは、それが、主人公がマリア様を通して「神様の女性性」というところに触れて、変化していく物語だったことだった。

なんだかそれがすごく、グワっと来た。

 

わたしの家には、童のお釈迦様の置物と少年のそれの像があるだけで、人間の形をしたものや絵はあと指人形とふくろう三兄弟くらいだったのだけれど、マリア様が来て、なんだか空気がずいぶん変わったと思う。

思い過ごしかもしれないけど、それはなんだか、不思議に嬉しい感じで、いまはそれをそのまま受け取りたくて、意味づけはしないでいていいのかなとおもってます。

 

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マリア様、メキシコにいかせてくださり、

ありがとうございました。