日月日誌 hitsuki nisshi  

来し方行くさき今の日誌

非情さのレッスン

憐みの無い場所について....思い当たる節があった。

 

わたしは、小さいなころ、

一緒にいる人が、みじめな思いをするのが嫌だ

一緒にいる人が、さびしくなるのが嫌だ

というものすごい怖れと言うか、強い気持ちがあった。

(美談ではありません)

 

自分の気持ちについては、

どうにでもなるからどうでもいいやと思っていて、

コントロールできない他人の気持ちがどうなってしまうかが非常に気になった。

これは、コントロールできないものだけに

もんのすごいストレスだった。

 

例えば大晦日の夜。

 

お祖父ちゃんの家に従妹の家族や

私の家族が集合してご飯を食べるのですが

お祖母ちゃんは、ひたすら料理をする。召使のように。

そして、せっかく作ってくれた年越しそばを・・・・誰も食べない(テレビに夢中)。

お祖母ちゃんはそのさまを見ては、非常に憎々しげになっている。

誰に当たったらいいかわからないお祖母ちゃんは、

お祖父ちゃんと喧嘩をし始める。

 

そういうとき……

わたしは、ものすごく困って……心の中で右往左往し始める。

これを、どうしたらいいんだろう・・・・

 

結局そのそばを一人で平らげて

「おばーちゃん、美味し…い」とか言った記憶がある。

正直、もういろんなものを食べた後で、味がしなかったにもかかわらず!!

 

年頃の従妹が「これはまずい、あれは食べたくない」とか平気で言っているのが

不思議でならなかった。

 

お祖母ちゃんがこの世に生きている甲斐を与えなくてはならない。

孫が美味しいと言ったら

すこしはこの夜に料理をした甲斐になるだろう。

おばあちゃんはみじめにならなくて済むだろう。

喧嘩は無くなるだろう。

平和になるだろう!

とかいうことを本気で思っていた。

 

そして、そのあと満腹で苦しくなって、全部、吐いたという・・・(T_T)

(このあたりの完全犯罪的なことが、わたしはほんとにできない)

 

私が「無理をして」食べたことが話題となり

そんなわたしをおじいちゃんは

「人の事が考えられる子だ」

と褒めた。

わたしはますます、こうすべきなんだ、と思った。

 

今書いていて…

このリトルアキコのどうしようもない上から目線にウケておりますが、

本当に、必死でそういうことを想っていたわけです。

苦しかったわけです。

 

その後もそういうことは続き、

学生の頃、友人に

「そんなことしてると、

赤の他人なのにその人の老後の面倒までみなきゃいけなくなるよ、そのうち」

と言われたりしました。

そのときに、はじめて、「あれ?なんかおかしいのかな」と思ったのですが

 

「私がなんとかしなきゃいけない」

「寂しさを感じさせてはいけない」

殊勝な感じに聞こえるけど、そうではなくて、

もっというと、ものすごいエゴだったんだな・・・と^^;。。。

 

その人が寂しいかどうかとか

その人が悲しんでるかどうかとか

そんなの、分からないのに。

自分の手でコントロールできないものまでコントロールしたいと思ったわけで。

「悲しい人だ」とか、「寂しい人だ」というレッテルを

同時になげかけてたんだなと思うわけです。

 

さて。

ナワールになるための条件のひとつ

「憐みの無い場所」まで集合点を移動できるかどうか

っていうのは……

社会的に言われる憐みとか、情とか、そういうものにとらわれないところで

ものごとをありのままに見よ

そして、そのありのままから判断せよ

そこに、何の価値判断も、社会的道徳も、常識も

差しはさんではならない

 

っていうことなんじゃないのかなと…

さっきはっと気づきました。

 

シャーマンが、情にほだされてたら話にならんし。

 

でも、シャーマンだけじゃなくて、普通の人にとっても、

ある部分では、そうなのかもと思ったわけです。

ある意味、何のためにも、誰のためにもならない…と。

 

踊りの師匠が、師匠の師匠のもとをやめたあと、ちょこっと戻った時に

「ああ、ここの非情さがほんとうにありがたい」

としみじみ思った、と言っていたけど、私、わかる、その感覚。

 

だから、あえてはっきり言いますが

「福祉」的な感じがとっても苦手です。

苦手、というか、きらいです。

福祉の場所にいるとたまに、たまらない気持ちになって来ることがある。

「保護してあげよう」という意図を持った時点で、

その人は「保護されるべきひと」になってしまうから。

 

だから、障害の方とのダンスの場を、師匠が

「絶対に、『アート』として、やっていかないとだめ。

福祉になってはいけない」

というのは、ほんとうによく分るのです。

 

集合点が異動して憐みの無い場所に達すると、

合理性と常識の位置は弱まるということだった。

自分の中に古くて暗い、沈黙の部分があるというあの感覚は

理性に先立って存在しているものが見た光景だったのだ。

そうして私の集合点は、ドンファンの変身という圧力のもとで

いつもの内省の場所を捨てざるを得なくなったそのとき、憐みの無い場所に到達した。

「見せかけの同情の世界は、真の意味での残酷さと、利己主義の世界でもあるんだ。そうした世界で言う本物の感情とは、それを感じる者にとっての都合のよい感情だけなのさ」

呪術師にとって、非常さは残酷さだけではない。非常さは、自己憐憫やうぬぼれの対極にあるものだ。非常さとは、平静さのことなんだ」

 

非情さのレッスンはつづく。