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日月日誌 hitsuki nisshi

from akiko otsu <来し方行く末と今の日誌>

かんわきゅうだいその⑧ 感じる私は今にいる。

「あなたは、自分では意識していないかもしれないけど、
相当なアウト(アウトサイダー)よ」
と師匠に言われて久しい。

わかっていたような、
そういわれるとそうかなあと思うような
そんなこんなですが。
まあ、そうなんだろうな。


非常に孤独な日々であります。
久々に家に早く帰るとき、ああ、孤独だなあと思う。
しかし、これはなかなか面白いなあ、
なかなか味わえない気持ちだなあとも思う。

ナニモノでもない自分が映し出す世界。

社会的に動いていた時期は、
自分がここに存在しているという実感がとっても希薄だった。
社会と言うもっと大きな存在があって
自分はそのなかでごみみたいに取るに足らないものであると。

でも、その「社会」なんてものは、ぜんぶ
与えられた幻想に過ぎなくて
わたしたちはみんな、自分のフィルターを通して世界を見ているのだから、
だから、わたしたちはみんな、自分の世界の主であるのだと思う。
そして自分という映写機をつかって映す世界は
いかようにもしていくことができるように思う。

自分の心を何に向けるのか。
それだけが大事。

嘘を映して、それが自分の本当だと思いこまないために
いつもいつも、自分のフィルターがよごれていないか気にかけて
よごれいていたらきれいにして
紗のかからない自分の世界を映すことが大事なんじゃないかなーと思う。


わたしはいつも自転車を神社に置いていて(すんません。)
停めるときと動かすときにいつも風が吹く(気のせいかもしれないが)。
そのとき、とっても気持ちがいい。
そして、「感じる私は今に居る」そう確信する。


「私たちの一生はお掃除なんですよ、これはもうしょうがないんです」
と、ある人に言われました。


最近、私の頭には般若心経が流れる。
色相是空、空即是色。
なんか感じ入ると
遠離一切顛倒夢想……
と、部分がながれてくる。
インドのシヴァの聖地に行ったときは、ムリティユンジャが流れてきた。

わたしにあんまり思考がないときには、
その場に合った何かが通って聞こえてきてくれるんだろうか。
こんなこと書いたら出てこなくなるだろうか。


不思議な現象は2014年位から始まったけれど
その前から準備期間があったのかもしれない。
よく分らないけど、なにかのレールがひかれていることを
ものすごく意識している。
しかし、それがどんな風に続いていくの、あるいは続きはないのか、
どんな環境に放り込まれるのか、全く読めない。


わたしには、師匠が二人いる。
そのどちらも、日本人だ。そしてそのどちらも奇しくも74歳だ……
一人はしばしば語りが登場する踊りの師匠。
そしてもう一人は、読むことの師匠。


読むことの師匠には、別に弟子だと認めてもらったわけではないのですが
とても気にかけてもらっているのがわかる。
そして、何を言いたいのかが、意味ではなく手に取るようにわかる。
「無言ではじめて、ひとりひとり無言で帰っていく。それがわたしの理想です」
と言うくらい、徹底して何も「教えようとしない」人。
踊りの師匠は、徹底して何かを「教えようとする」人。
読むことの師匠は、徹底して強制しない。
踊りの師匠は、死ぬほど強制する。

今書いていて、笑ってしまいました。真逆だ。


どちらも最高レベルのシャーマンだと断言できる。

私の中にもともとあるものが、
とてもシャーマニックだし、
アニミスティックだと思う。
これはべつに特別だと言いたいわけでは全くない。
ただ、どうしても
そっちのほうに行ってしまうだけなのです。
それ以外、信用することができないで来ただけなのです。

徐々に、自分が体験してわかったことを自分の中に落とし込んで、
伝えていけたらいいなと思っています。
わたしは徹底的に右脳人間だから、
左脳がちゃんと機能してくれるまでに
まだ時間がかかると思うけど、きっと両方動いてくれるようになる!と信じています。


どうして、こんなこと書いているんだろう?
ううむ。
もうどうしたらいいんだろう、みたいな気持ちに
なるときももちろんあるんですが。
それでも元気。
日に日に、元気。

とにかく。
今は非常に孤独です。
どんどん、どんどん、孤独です。
そして、どんどんどんどん自由になっていく。
もっともっと出会いたいです、私。
もっともっと人に出会いたい。
そして仕事がしたい。

ああー、私に仕事させてくれ!
と心の中で思う孤独の日々なのです。