日月日誌 hitsuki nisshi  

来し方行くさき今の日誌

知的障がいのある人とのダンス。

知的障がいのある子たちと踊り始めて7年超えました。

私の踊りの師匠が25年くらい前に始めた踊り(とマッサージもするよ)の場ですが

わたしが現在のカンパニーで踊りを始めるのと同時くらいに、

そのうちのひとつのクラスの幹事を、人がいなかったので、入ってすぐなにもわからず引き受けて、気づけばこんな経ってしまった。

 

昨日古くからの友人とクラスのあとにお茶を飲みに行って話をしていると

そこのマスターが

「収入になるんですか?」

「いえ、たまに代行するときにすこし頂くくらいです」

「そりゃあよほど強い思いがないと続けられませんよね。」

 

なんていうので、なんでこんなに続けられたのか考えた。

ううむ。

わたしにはその「強い思い」というのが、無いな。

そして、そういう社会的使命感が皆無だから続けられたんじゃないかな、と。

 

単純に、楽しいのと、必要があったから続けてこれたんだと思う。

  

踊りが一瞬にして成立するときの(そして一瞬で消える)何とも言えない感じとか

見る側にいて、踊りが生まれるときの美しさとか、

彼らがありのままで居ることがそのままダンスになるおもしろさとか

他の場所ではえられない心身の緩みと気の交換ができることとか

単純にマッサージが超気持ちいいなとか

たくさんのイメージが行き交うこととか

 

そういうのが、今自分が接するものの中で

最もピュアで生命力に満ちていて、楽しくて、

これってダンスって思える最良のものだと思うからです。

 

そして、なおかつ、ものすごくわたしにとっては、

ものすごく勉強になってきたんです。

お勉強です。

 

「ありのまま」でいいんだ、というお勉強。

馬鹿になるため(いい意味で)のお勉強。

言葉以外のコミュニケーションのお勉強。

 

こう羅列してみると

学校教育の矢印と、ま逆ベクトル。

ほんとに、学校教育って、罠以外のなにものでもないというか。。。

 

で。

 「ありのままでいいんだよ」なんてーことを、簡単に言いますが、

社会生活にまみれたわたしたちがありのまま、

なんてーことを簡単に自分に許可できるわけがありません。

 

思考でがんじがらめになっている身体と頭をゆるめて、

馬鹿になる(いい意味で)、なんてーことも簡単にできることではありません。

 

そして、言葉以外でコミュニケーション。

もともとできる人もいるんだろうけど、いろんなものを「読み」ながら。

 

 

おもしろいことに。

これは障がいのある人と、ない人(そのボーダーはあいまいだとしても)が一緒にいないと場が成立しない。

どちらかひとつではだめなんです。

チープな表現ですが、双方がたすけあわないとダンスも場も気の交流も成立しない。

 

逆に、たすけあうと、ものすごく素敵な交歓の場になる。

そのとき、身体は緩み、気は行き交い、場がぱあっと明るくなるのがわかります。

下手な気功教室に行くよりもずっと、双方の気が高まり、健康になるのがわかる。

 

書いていて、つくづく、ここに支えられた来たなとおもいます。

わたしはこれから、どうここの場とかかわっていくのだろう。

そんなことを思ってます。