日月日誌 hitsuki nisshi  

来し方行くさき今の日誌

木曜日のミサイル

いまだかつてない眠気と怠さと体の重さを覚えて、ほんとうにやばかった本日。

でも今日は木曜日。
マリアさまに、「木曜日のミサに来なさい」といわれた事件がひっかかっていたので、わたしは行って参りました。

ミサは滞りなく進んだ。

そして最後に、外国人司祭が、訛りのある日本語で
「十字架を背負って歩きなさい」と言うのに
なんとなく後ろか、頭をガッツーンと殴られた気持ちがした。

いつも
わたしは罪をおかしました
と何度もいう下りがほんとうに何か落ち着かない。
罪はたくさんおかしました。
たくさんおかしましたけど、それを永遠に懺悔するのか……
さらに、十字架背負って歩けって……
(暗澹)……。

至極しんみりしながら、マリアさまに話しかけた。
マリアさまの手には今包帯がぐるぐる巻きにされていて<ドント タッチ>とかかれてある。
私は実は、包帯の前日に、花が置かれてあったその手にちょっとだけ触れてしまっていて、
その包帯を見るのが実は辛い。


マリアさま泣いてるみたいで、そこに立ち会うと、<あたしの金運あげてください>みたいなことは、さすがに出てこない。
だから、マリアさまに向き合うときは、何をおっしゃりたいのか
と問うことになる。
泣かないでください。
とも言う。
教えて下さい。
と聴く。
恥ずかしいが、助けてください。
ということだってある。
今日は、なにも聞こえない気がした。

その後、少し教会で瞑想した。


神さまは私の中にいるという。

それなら神さまに祈ることは、自分に祈ることなのか……
とフトおもう。
ん?てことは、
あなたはわたしな訳か。
ん?

不思議な気持ちがやって来た。
帰りの電車で、わりとキッツキツな車内で、あなたわたしあなたわたしあなた……の応酬…………
周りの人をみても、あなたわたしあなたわたし……
なんか、そしたら、活力が湧いてきたのにおどろきました……。

家に戻ると程なくして憔悴がやってきたけど……あの活力、久々……


ワタシ、抑圧されてましたな。
十字架ぶん投げたい気持ち。
そして何かもっと知りたい、あなたとわたしの秘密。

意味わかるかね(^^;)

道の途上にて候

よんでいるむねのどこかおくで……

というフレーズがなぜか頭でこだまするのだけれど…

 

呼んでいる胸のどこか奥で。

 

はて、この続きはなんだったかな…

 

と思ってググった。

 

そうか。

千と千尋の神隠しか。

 

 

繰り返すあやまちの そのたび ひとは

ただ青い空の青さを知る

 

……ううむ

 

さよならのときの 静かな胸

ゼロになるからだが 耳をすませる

 

生きている不思議 死んでいく不思議

花も風も街も みんな同じ

 

………むむむ

 

はじまりの朝の 静かな窓

ゼロになるからだ 充たされてゆけ

 

……このあたりでもうダメでした…

 

この歌詞、覚和歌子さんだったんですね。

なんてすごいんだろう…

 

そして、この曲の最後のフレーズはよむと

いい意味でなんか胸がいたくなってしまった。

 

いつも何度でも 木村弓 - 歌詞タイム

 

…ここのところ

暗澹とした気持ちになっていたのですよ(ほんとはね)。

でも。

こうでもならなかったら、こんなに一生懸命に

お祈りしなかったなとおもいます。

こんなに一心に神様について考えたりもしなかっただろうし

心を向けもしなかっただろうと思う。

そして、四谷の教会にも出会えなかったと思う。

(何度も通っているのに、見向きもしなかったのだから)。

 

そうそう。

ここのところ「聞こえる」系のあやしい話を書いている私でありますが。

でも。

やっぱり。昔々だれそれかから習ったようにですね

この世は「問い」と「応え」の

「やり取り」で成り立っているのではないのでしょうか!

投げかけると、応えてくれるのが人情ってものではないでしょうか。

 あ…人じゃないか(^^;

 

 

というようなあやしい話をしても

それをちゃんと受け取っていくれる人が

周りに割といる環境というのはほんとーにありがたく、

孤独死を避けられている気がいたします!

 

そんでもって、

ガネーシャ・ギリ先生の所を教えてくれたり

藤山家に縁をくれたり

わたしに数々のアドバイスをくださる

リアルワールドの粟沢さんがこのたびkindle本をだされた。

(しかも、日曜日まで無料でダウンロードできるらしいですよ、

 このブログを土曜日までに読んだあなた!ラッキーよ!!!笑)

https://www.amazon.co.jp/dp/B077XBFQ41

 

ご本人曰く「プロフィールみたいなもの」とおっしゃってましたが…

内容がかなり濃くて、ぶっ飛んでて、面白かった!

普通に生きながら瞑想してもいいということも(あたりまえだけど)、

祈ることや、神様の事もわかりやすいし、

そして、個人的には、いまの自分の立ち位置を確認するための

適切な素材をくださったように感じております。

感謝!

 

とくに、「父の道」「母の道」というところが…

「なるほど!!」

 

 

わたしもどうやら、

マザーの道の途上にて候。

 

メキシコに住みたい夢想

大きな土鍋を割ってしまったショックで

失くしてから早3年…

最近…鍋をやりたくて仕方ないデス、、、

こたつに土鍋が落ち着くおとしごろです。

 

今日は師匠の家に呼び出されて,

はるばる西武新宿線の遠くまで行ってきました。

昭和の家で、シャーマンみたいな人と一緒にいるといやに落ち着く自分がいる。

そしてたぶん師匠私のこと好きなんだろうな、と思った。

(老人には昔からモテる私。)

 

「え?あんた来年何歳?は?まっだ若いじゃない~。あたしなんて75歳よ!

もう朝起きると、灰色の嫌~な気持ちが襲ってくるわけよ、これは怖いわよー。

はじめての体験でね、たぶん踊れなくなったらもうあたしはやばいわね。

でも、同時に今から「書く」ことを少しずつ、やっていかないと…と思ってるのよ。

 

私はね、もうぜんぶやめにしよう!と思って踊った38歳の作品で

がらっと人生かわっちゃったからね。

人生何が起きるかホントわからないのよ

あんたももっとね、大きく長く考えなさい。

人生の最後にきてね、ほんとに苦しかったときにがんばったことは

ぜったいに大事に思い出すから。

っていうかね、そういうときのことしか思い出さないから。

何の大過なく過ごしても何のための人生なんだろう、って

みんな最後に立ち止まるよ。

だからわき見をしないで、つっこんでごらんなさい」

とおっしゃったので、いっしょに笑ってしまった。

たぶん、あと1年くらいで踊れなくなる師匠は

今、側近を手放すとたちゆかないし、打算ももちろんあるのだろうけど

それでも、「ホントに何が起きるかわからない人生」を生き切った人の

目の輝きは、大学の先生の何兆倍も説得力があるわけであって。

 

わたしは、一年くらいメキシコにでも行きたいわとか、

ここのところ夢想していることなどを

揚げ足を取られないレベルまで暴露して、つまみにしてみると

「いいじゃない!誰それと、誰それをいつでも紹介するわよ、でも

1年ふんばってからにしなさい」

そうくるよね、やっぱ。

 

最近、同世代の男性や女性とはなしをすると

みんな、底知れない不安とか、抑圧とかで苦しんでいる。

いついつまでに何をしなきゃとか、働かなくちゃとか、結婚しなくちゃとか

お金貯めなくちゃとか、そういう話をたくさん聞くし

わたしだって、そういうことを想わなくはないし苦しいときもたくさんだけど

踊っていると忘れるし、祈っているときもちいいし、

人と話して楽しいとうれしいし、

メキシコ行きたいとか、インド行きたいとか

だれそれに会いたいとか、

あんな保存食つくってみたいとか

あぁいう工作してみたいとか

あんなハーブのにおいがかぎたいとか

そっちのほうを考えると、恢復してくる。

 

今できるのは、小さくまとまらないで元気で過ごすことだし

怖いことをぜひともやってみることだし

自分も人も大事にすること、かな。

 

…なかなか、がんばってるよね、

あなたも私も。

 

明日は、この神様の掌の「人生劇場」に

だれがでてきて、どんなダンスをするのかな。

  

15分の一致。

魂の伴侶、メープ氏(仮)が

学校運営資金をクラウドファンドした結果

期間の半分で目標金額(200萬!)達成したらしく、

微力ながら応援出来てよかったなと思っております。

 

で。

そんなこともつゆ知らず。

おそらくそのご報告の電話をウキウキでしてきてくれた頃…

わたしは自分の失態で、おそらくもう二度と連絡をとれないであろう

友達のことを考えながら割と落ちこんでおりました……

 

電話に出る気力もなく

「悪いけど今電話でしゃべるような気力が私にはありません…」

と送ると

「どうか落ち込んでいる理由を教えていただけませんか」

というので、

かくかくしかじかです…

と申し上げると

「仕方ないよ…そういうことは起こります、we are human being.」

と、文法とスペルが全然違う英語で返ってきて、

それをみたらどこかにしまい込んでいたらしい涙がぽろぽろ出た。

なんでかわからないのだけど、心の何かがhealされたらしかった。

 

以前は、きっとみんなこうして互いを思いやって、

なんのジャッジもはさまずに「ただ共感」するだけで、

響き合って癒しあってきたのではないかとおもわれたし、

わたしたちはseparateされすぎたんだな…と思った。

しかし「ただ共感する」ことにかけてはすごいな…メープ氏。

どうして今生では伴侶でないんでしょうか。(なんて)

 

…一瞬ファンドの結果みて上がったけど

それでもまだ…(ぐったり)。

 

お家に帰ると、朝日か何かがきらきら光った写真(裏表紙)が

床にぱさっと落ちていました。

まえに教会のバザーの時に自由に持って行っていいよ

コーナーにあった本。

 

ぱらぱら読み始めたら、これまた

聖母マリアのご出現の本だった…。

読めよ、っつーことかと思って(すいません)、

お風呂に顔半分まで沈みながら読んでいると

 

こんなことがかかれてありました。

 

祈りなさい。そしてわたしに信頼をお持ちなさい。

ロザリオの祈りを唱えるのには十五分かかります。

毎日十五分を私と一致して祈れば、あなたがたは多くの事を理解し、

心と霊魂にたくさんのものを受け取るでしょう。

なぜなら私はあなたがたを大変愛しているのだから!

 

毎日十五分の一致でいいという……

ほんとにマリア様も必死なんだなという気持ちがいたしました。

 

なんか、ほんとに、耳をすませば

声は聞こえるんだ

という気が、わたしにはします。

 

誰にでも。どこでも。何時でも。

サイキックである必要はどこにもございません。

ただ、耳を澄ますだけ。

さいしょは、たぶんかそけき声で。

そしてたぶん、色んな所から、メッセージは来ていて、

キャッチしていけばしていくほど

回路は太くなってくる、

ような気がしております。

コツは、「聴き間違いかなー」と決して思わない事!

自分を信じる事!!

 

はい、完全に巷で言われる変な人ですがね…

変な人は、思う。

 

今日も教会で、こう言われた(きがした)。

 

「〇×…×◀(聞き取れず)のときも病めるときも、

わたしは共にいます。木曜日のミサにきなさい」

 

…木曜日のミサ?

 

今週私忙しいの知ってるのかなマリア様…( ;∀;)

 

 

いつも思うのだけど、順調にいっているときほど、

他人の気持ちに鈍感になり、祈りの気持ちが薄らぐ。

だから、踊りの師匠はこういう

「ダメなときほど、踊りはいいのよ」

と。

 

なんか、イケイケでいることがいい、と(多分引き寄せ的にも)

言われている世の中だけど

わたしはそうは思わなくて

心をやわらかく、というか、ある程度空(むな)しくしておかないと

わりとだめな気がする。

舞踏ではいつも、そのようにしておきなさい、という。

空しくする。心を。

だから、歩くときに、胸を張ってはいけない。

むしろ、胸は少しへこませる。

西洋舞踊みたいに胸を張って自分の存在をアッピールしたら、

自分以外のなにも入ってこれないから。

 

心を空っぽにしておけば、そこに必要なものが入ってこれるから。 

 

…というありかたが、わたしにはしっくりきます、

ということなのだけど(^^;

西洋的な自己のあり方が、苦手なんだと思います。

(だから、インド占星術では「月」の位置を大事にする、と聞いて 

胸をなでおろしたのです)。

 

今までは、自分の中で、

スピリチュアルと踊りがわりと離れたところにあった。

繋がっていることはあたまでわかっていたけれど、実感が薄かった気がする。

でも、たぶん、二つは…というか、お祈りとダンスは、一緒なのだと思う。

そんなような実感がうまれつつある。

そして、日常生活もほんとうはすべて

祈りで満たされているはずなんだろうな…(わたしが忘れているだけで)

というように、おもった。

 

しんみりしてしまった……

 

本日も、みなさんのおかげで生き延びました

 

ほんと、ありがとござます。

 

おやすみなさい。

  このような一日が終わる。

社会的に生き始めると孤独になり

社会から距離をとると至福がやってくる

…みたいなおかしな構造は、やっぱりおかしい気がしており

これはやはり、わたしの「選択ミス」ではないかと思われる。

 

そんなこんなで

昨日はすべてを放り出してルン・ルへ行ってしまった。

ルン・ルはすごい。

頭蓋骨が床にめり込むくらい緩む。

もう身体がなまりよりも重くなって、意識は深いところに入っていくけど

案外外界の状況もいろいろ把握している。

終わった後は、非常に血行がよろしくなり

もうなんでも大丈夫!

な心境になる。

 

このような所に、自分でもいけるようになったら、どんなにいいだろうか?

(よくないかもしれない、行ったことがないからわからない)

 

植原先生は言った。

 

「お釈迦様は、難行苦行は意味がないとおっしゃったけど、それはウソです。

難行苦行よりも、もっとすさまじいことをあの方はやってのけた。

それはね、「吐く息とともに余分な力を解き放つ」だけです。

でも、余分な力があるということは、余分じゃない力もあるってことだよね?

その余分じゃない力はどうするのか?

それは、「吐く息ととともに余分な力を解き放つ」ことを実際にやった人だけが

わかります。

だから、やったひとは、何が起きたか教えてください。

教えて貰ったら、その人がどこまでいってるか、瞬時にわかります」

とおっしゃった。

 

植原先生は、ほんとにすごい。

77歳にして、身体年齢が28歳だか、30歳だか、その位らしい。

 

昨日は、なんか、小さくアメリカン・インディアンのうた

みたいな歌を歌い出す人がいらっしゃった(邪魔でもなんでもなかった)。

 

もうなんでもあり!の場所だ。

 

そうこうして、

一日経つともうこのザマな自分が無様すぎて泣けた。

 

だが、わたしの神の探求も続く。(爆)

 

菊谷さんにおすすめされたこちらの本を読んでいる。

『神の探求』

これが、また泣かせる本で、わたしは電車に乗りながら

もうわんさか涙を流してもはや変態の域である。

エドガー・ケイシーが、リーディングによって語ったことをまとめた本で

こりゃあ凄い本だ。

内容を紹介する気力が無いので(笑)

もうこれはみなさんご自分で読んで頂きたい。

以下のレビューどおり。

「ケイシーは熱心なクリスチャンでしたので、聖書の言葉をたくさん引用していますが
聖書を知らなくても、心の深いところへしみ込んでいくような不思議な本です。」

 

ちょっと引用するけどね。 

>もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。…わたしはあなたがたを友と呼ぶ。

>あなたがたがわたしを選んだのではない。

>わたしがあなたを選んだのだ。(ヨハネ15・13~16)

 

 

あなたがたがわたしを選んだのではない。

わたしがあなたがたを選んだのだ

 

…って……。

 

ズドーンときました。

 

それならさ、それならさ…

 

なんとかしてよ神さま…

 

お願いしますよ…

 

 

朝、ひととおりジャパして、洗濯物干して

朝神社に自転車をとめて、神明宮に朝の挨拶をして

電車の中でプレマバクティチャンドリカの朝の講義の録音を聞きながら四谷に行って

四ツ谷で降りて教会でマリア様に挨拶して

(朝のマリア様はほんとに美しい…)

急いで職場に行きながら、マハ―マントラ唱えて

なんだかんだやって

夜四谷で降りて教会に行って

わたしはマリア様がすきなので

マリア様に挨拶をしていたら、また声が聞こえた(気がした)。

 

「わたしの下に(元に)来なさい」

 

わたしクリスチャンじゃないのだけど、いいですかね。

 

 

ミサに出たら司祭が「とにかく、ロザリオの祈りを一生懸命にしなさい」と

というので(司祭に寄って物凄い場が違う)

キリストさまのドMでドSなのがすんごく苦手(すいません)なので

キリストに祈る代わりにクリシュナに祈って

ハレ―クリシュナ一生懸命唱えるとまた涙がわんさかでる。

でもって、急いで高円寺の公民館で

踊りの稽古しながら昨日のルンルの状態が再現できないかとか

あれこれやって、疲れ果てて(爆)帰宅。

 

一個わかったのは

神様にちゃんと祈ると体が緩み、脳みその疲れが抜け、ハートが開き

元気が回復する。

 

これはもう、ものすごい、自己修繕技法である。

なので、サラリーマンとか、一日15分でもやったらいいのに!

売り上げ上がるよ!

疲れ、抜けるよ!

おまけに、世界平和だよ!(万々歳!)

 

と思った。

が、これらを巷のサラリーマンにいったところで

頭の可笑しい人だと思われるにきまっている切なさ。

だってほんとだもん!と地団太踏んでも、非力な小娘には何もできないのであった。

もし、「そうだね!それがいいね!」って言ってくれるサラリーマンがいたら

まずはお友達から仲良くしてほしいとお願いしたいくらいだ。

 

みんななんで騙されたと思って

自分で試さないんだろう?・・・って思うのよわたしはいつも( ;∀;)

 

わたしは今生の人生では

どこにもたどり着けないかもしれない。

たどり着けないどころか

どこかで野垂れ死にかもしれない。

でも、一人で死ぬのはわたしのような軟弱者には

結構つらいです、神さま。

 

、のような一日でした。

 

 

 

 

 

 

ひとつになれなかった日。

ひさびさに踊りを観に行った。

 

観に行ったのだけれど。

これ見た友人がこう書いていたよ。

 

>今日は、3,500円で60分の美しい(けどちょっと退屈で感情移入できない)マスターベーションを見たなと思った。

 

>舞踏手は私を椅子の上に置き去りにしたまま彼の世界を繰り広げていた

 

・・・・すごいよね、この洞察ね。

これ以上言葉がありません。

そして、その通りだと感じました。

 

つーかさ、あんな 

「すごい本格的なる踊りやります、演劇もダンスも舞踏もひっくるめて。

すごい師匠の影響受けてます、ほんとすごいです」的な事書いちゃってさ。

そういうテキストで触れ込んだら

あれ初めて見た人はあれが舞踏、と思うとおもうよ

罪大きいよ、あんた・・・・・

舞踏がなんなのかなんてわからないけど。

と思ってしまいました。

はー・・・・

第三者不在の踊りはマスターベーションである

名言……

自分にもい聞かせようと思いましたー!

 

終わった後、演者の彼はすっきりした顔をしていたけれど

わたしは邪気に当たったみたいに、ものすごいもやもやしていた。

他の観客も、どうみても、浮かない顔してた。

世界は、何も変わっていなかった。

 

いつも踊りの先生が言うのは

「内部にはいりすぎたらだめ、外部だけでもダメ

でもね、ほんとは内部も外部もないんです」 

 

知的の子たちをみてると、よくわかる

彼らは、「内部」「外部」の区別の垣根がすごく低い

内部がすぐに、外部になってあらわれる。

そして、人の気持ちに、とても敏感なのも

人が「他人」ではなく感じられるからだろうと思う。

 

彼らのダンスは、ほんとにうつくしいのだ。

 

この感覚をだれかと共有したいのだけれど、

なかなか彼らの存在は「福祉」から出られない。

彼らのダンスは、福祉じゃない。

生きていること、そのものだもの。

 

彼らはすくなくとも、

だれも置き去りにしないよ。

 

 

ひとつになりたいんだ、わたしたちは。

 

何かと、誰かと、世界と。

 

 

縁あってのひとびと

なんだか、最近は周りにいる人たちがなんかすごい。

 

これはちょっとした、自慢(?)だ。

 


今日お会いした人は、こんなことを某所に書いていた。

 

>ああ、ここにやっぱり戻ってきた
 
>そう思った

>いつだって、私はこの力を感じていたかった
>祈りの場にいたかった

 

そうなのだ…。

 

お祈りすること、なのだよな。

 

さらにある方からお手紙が来た。

 

お手紙を貰うのは、ほんとうにいつになってもうれしい。

手紙の嬉しさを忘れていたけれど、手紙は、ほんとうに嬉しい。

 

お手紙の主は、敬愛してやまない藤山家のゆっきぃさんからであった。

 更に…ゆっきぃさんは、ブログにも書いて下さった。

 

 

お手紙とこのブログを読んで、

 

私は、、、、

 

 

悶えた。

  

 

 

実に私は。

 

純粋だねーとかピュアだねーとか素朴だねー

とか言われることが多く。

それは裏を返せば

「何にも知らないお嬢ちゃんですね」

という大人のある意味嘲笑的なそれだと思っており、

 そういわれるたびに、心の底の方ではため息と悪態をついておりました。

 

そして

「もっともっと、「泥臭く」清も濁もあわせのんで生きる女になるんだ!

足りない足りない!」

みたいなね。

 

もうそれも

ずいぶんな傲慢だなと。 

思われました。

 

世辞抜きに

ゆっきぃさんの施術は、すばらしく素敵です。

何が素敵かって、その「リーディング力」です。

読み取る力。

 で。

ゆっきぃさんのリーディング整体を受けると

とにかく「打ち明けたくなる」。

 

それは、リーディングの「凄み」と

ゆっきぃさんの過ごしてきた人生の「泥臭さ」から醸し出されるものとを

無意識レベルでみんな察知して、安心して委ねたくなるからだと思う。

 

わたしも、心底、生涯だれにも言わないだろうな…ということを

この人には言ってしまった。

 

そういう方です。

 

さらに、自分の枠を壊しまくっての今で

これからきっとすごいことになるだろうな、と思う。

 

昨日は、縁あってありえない生い立ちの人から

ありえないくらい面白い対話をさせてもらったうえにご馳走までしただき

今日もまた、最初にかいた直感レベルのすごい人のお陰ですばらしい経験ができて

さらにチャイまでご馳走になって

それらことはまた書きたいと思うけれども、

なんだかほんとうに、たとえ自分が悶えていても

周りの人が運んできてくれる縁の力がすごくて、浮上させてくれる。

こういう感謝をいいままでしたことがなかったけれど

(どんだけ傲慢なんだ…(^^;)

ありがたいことだなと思うし

それをまた、返していけるようになりたいとほんと思います。

 

神様を信じていなかったんだ…

と気づいてから、神様を信じようとすることに向き合えるようになりました。

 今日は、ここ半年くらいの間のうちで、いちばん

踊れた日。

神様を信じようとすることに向き合うのは、

自分を信じようとすることに向き合うことなのかなとおもいました。

 

はー

シンプルイズ、ワンダフル。

 

単純はすばらしい。