日月日誌 hitsuki nisshi  

来し方行くさき今の日誌

クリシュナのいたずらと永遠の一瞬

「EVER MOMENT WITH SCENES」という本が出ました。

 

一瞬のなかの永遠…

みたいな感じでしょうか。

さすがすばらしいタイトルだなあ…と。

あと、さすがにそうそうたる、書き手(主に詩人)の方たちです。

 

 

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展覧会THE LIBRARY 2017の開催にあわせ、ARTSPACE出版部より新刊が発刊されます。

写真と言葉の書物EVER MOMENT WITH SCENES

ISBN978-4-9907629-7-1  C0070 1500円(税別)

写真家、詩人、評論家、舞踏家、音楽家等による、写真と言葉による表現のこころみ

著者・藤原安紀子/髙﨑紗弥香/吉田文憲/紫衣/大和田海/山田有浩

菊井崇史/岸田将幸/大津明子/川戸郷史/若林良/杉中昌樹

 

詳細:http://www.ab.auone-net.jp/~library/infomation.html

 

(びっくりするほど美しい写真と、ことばの書物です。

もしほしいかたがいたらわたしまで何らかの形でご連絡ください。

ほぼ市場には出ない気がいたします。)

 

出来るまで誰の何が入るのかまったく知らなかったので

ちょっとわたしは、気後れしていますけどですね。

言葉を扱っている人たちの言葉に対する姿勢をみると

ドキリとしますし、すごい…と感じます。

わたしももっともっと、言葉に対する感度を…と思います。

 

奇しくも、8月15日発行のこの本に

紀行文を載せて頂きました。

 

ジャン!

 

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クリシュナ神のお誕生日に

クリシュナ神のことを載せていただいたことになったのですね。

 

 

 

不思議。

 

実に不思議…

 

わたしがちょっと忘れてしまいそうになると

かならず向こうから…なんらかのかたちをとって、やってきてくださるのが、

クリシュナ神なのです。

 

クリシュナ神は、インド、ヒンズー教の神様です。

 

実は私は普段

「笛吹くクリシュナ神」(有名なクリシュナの姿)とその恋人とを

日々瞑想し、馴染んでいるわけでは、実はないのです。

ただ、私がインドの右も左もあばたもえくぼも酸いも甘いも

何も知らなかったときに…

一番さいしょに教えて頂いたマントラ

マハ―マントラ<クリシュナ神のマントラ>で

わたしはその経緯とその事実をとても大事に思っていて、

なにがあっても、大事にしよう、中心にしようと決めていて、

わたしが最も多くその名前を呼んでいる神さまであることは確かです。

 

だから、すごく敬虔な信徒でもなんでもない私、なのですが

わたしが彼を忘れそうになるたびに

マーラー(数珠)を落として探させたり、

インドから(誰かわからない人の声の国際電話で)

「jay radhe sri radhe」 (クリシュナ神の恋人を称えるフレーズ)という

留守電を入れてきたりして(これほんとですよ(^^;)

クリシュナは「忘れてくれるなよ」と

いたずらっこの手法で伝えてきてくれてるんだなと感じていました。 

 

そのクリシュナとラーダ―を信奉するひとたちは、

「ヴィシュヌ派」といいます。

はじめて、インドに行ったときに、周囲のみなさんが

「ヴァイシュナヴァ!ヴァイシュナヴァ!」」

ということばを連発し「ヴァイシュナヴァ」の生き方を語り

その象徴である額に印をつけ、数珠袋を提げて歩いていました。

 

わたしは、最初に見たものをお母さんと思いこむアヒルの子のごとく

それがインドの平準的な信仰スタイルだと信じ

日本に帰ったらこのスタイルのインドと共に生きようと思って、

ほんとうに何の疑問もなく、また何の違和感もなく

数珠袋とともに歩き、ご飯の時はヴィシュヌに祈ってから食べる…

のような生活に突入していたのですが

あるとき日本に帰ってきてそれが

「ヴィシュヌ派」

のものであることを意味することがやっとわかり、ひざを打ちました。

 

そうです、もう一つの巨頭が、みなさんご存知(か知りませんが)

「シヴァ派」です。

この二つは共存共栄しているんだと思ってましたが

それぞれ静岡側の富士山がきれいか、山梨側の富士山がきれいか

のようなる派閥の争いのようなものは、どうやらあるみたいですね。

(ちょっと例えのニュアンスが全然違ったらご勘弁ください…)

もちろん、ほんとの本質的にはそんなことないんだと思いますが

でもね、そんな「派」のことも知らなかったの私!

 

 

 

それで…帰国後に自分でまとめた文章は

おのずと「ヴィシュヌ派」にまつわるものとなりました。

図らずも色んな人が読んでくださり、そうこうするうちに、

MTさんという方にお渡しして

何となく「あぁ…わたしはMTさんまでにお渡しするために

クリシュナに書かされたたんだ…」と納得し、そこに来て初めて

「書いてよかった」と腑に落ちて思ったのです。

 

そして、今度はそんなMTさんから

「今日は、クリシュナのお誕生日ですよ」

というお知らせと共に

ガンジス川の出発点、ゴームクの貴重なお水と糠漬けとを

(わざわざ阿佐ヶ谷まで持ってきて)頂いた8月15日。

(わ…ごめんなさい、クリシュナ様、お誕生日…忘れてて(^^;)

 

心のざわつくメキシコ前に、

ゴームクのお水がものすごく涼しくて清くて嬉しかったです。

ありがとうございます。

 

そして今日、ポストをあけたら、本が送られてきました。

ヴリンダ―ヴァンから始まるお話は、もう少しだけ多くの人に

見ていただけそうです。

 

クリシュナ神とラーダ―ラーニの恩寵以外の

なにものでもないと思ってます。

心から感謝します。

 

そして……

 

Hola, Mexico、、、まってろよ!

 

 みなさん、残夏をたくさん味わってください。

…行ってまいります!

 

 

 

 

 

緩んでいく、私とあなたと、桔梗のお花が咲いたお話

PCをあける気が全く起きずに過ごしたここ数日…

 

どんどん、どんどん、

やるべきことが出来なくなっている私。

それでもメキシコの準備だけはとか思って…

PCでの事務作業をもくもくとしてたら、

来ました身体の反乱。

いやいやいや、どーなっちゃってるのかな、、、?

いや、どーしてくれるんだ全く!!

社会的に使い物にならなくなっている私。

(…ただ、やりたいことだけには体と心がとても素直に反応します)

 

 

と思ったら!

更新もしていない自分のブログアクセスがすごい…

という不可思議な現象が起こっていました。

それもそのはずで、、、

 

更新されましたまってましたゆっきぃのブログ・・・!

そして。

…この(凄まじい)体験。

 

私が“ゆるむ”とどうなるか。 - 藤山家においでよ

 

どうだみなさん!!

ゆるむとこうなる!!!

はっはっはっ

っはっは。。。

 

はぁ…

 

これ読んでね。

やっぱりいっぺん徹底的に底を打つまで

出し切り死に切らないとダメなんだなーと思った次第です。

 

だってここに描かれているのは、

死と再生の物語でしょう?

 

わたしは1年半くらいルン・ルに通い

ようやくここからがほんとのもだえ、

すなわち、ここからが緩んでいくときなんだな…と思うわけだけれど

この方は、CDを聞いて、

だんなさまからのバイブレーションを受け取ってのこれですから、

ほんとうに世の中にはとてつもなく感受できるひとがいるんだなって

ぞくぞくと、嬉しくなったです。

 

ゆっきぃさんは、女性として

ほんとに

いいなあ~と思う友人です。

 

 

どんどん、ゆるんでゆるんで、

自分の枠を自分で壊していく…

な~んてそんな身構えた感覚がないほどに緩んでしまおう。

いらない緊張、いらない笑顔、いらない遠慮、いらない謙遜、

いらない行為からはなれて……

どんどん、どんどん、素直に戻ろう。

そういうふうに、ひっそりと、感じました。

 

でもね、ここ一週間くらいは、なんだかんだと

わたし、生きていました。

 

遥か昔からのお知り合いに違いないお友達が家まで来てくれたり

旅の間、トゥラシーちゃんを預かってくれるお友達と話したり

寿町に連れて行ってもらい

場の悪さに悶絶しつつもコンサートに励まされたりしていましたし、

もう我慢しない!精神から(?)しまい込んでいた浴衣を引っ張り出して

10年ぶりくらいに着たりしましたら、

ナンパをされたりしました(浴衣はモテるぞ!)。笑

 

「お友達になってください」と紙に電話番号を書いて渡すという…

古典的なこれですが。

これ、過不足なく押し付けなく逃げ場もちゃんとあることに

気づいて素晴らしいなと思いました私。

わたしも機が巡ってきたらすかさずに機敏にこのようにできるよう

心も体も緩めておこう…と

感じました。

 

 

CHIMATAはお盆です。

 

なんと、放置しておいた桔梗の花が2年ぶりに咲いたのです。

この花は、暗黒時代を共にしたので、

なんだか、とっても嬉しいのです。

 

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2年前にこの桔梗が好きで描いた絵。

 

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泣いてもいいが足元を見よ

なんかさーやっぱりさー

 

地味な事がとっても

 

大事。

 

なんだか最近ね思うのです。

わりとすべてが派手じゃないですか?

電車に乗れば広告見るし、

広告見ればみんなピッカピカのきっらきらで生きよと迫って来るしさー

降りたら降りたで街頭もそれらでチカチカしてるしさー

東京だけじゃないのかなー

パソコン開ければそこはアナザー派手派手ワールドが展開されてて

SNS開けばみんなキラキラしてるっぽいしさー

 

そんなことない?

 

でもさーやっぱり

 

地味なこと忘れちゃだめだよねー 

地の味だもんねー

さもないと頭ばっかで生きちゃうからさー

頭ばっかりでっかくなって重心安定しなくてさーもーグラグラ!

グッラグラですよ。

立とう!!!ちゃんと自分の足で!!!

みたいな感じの日でした。

 

今日。

 

2か所のまったく関係のない場所で

「高尾山を裸足で登る」

っていうことについて聞きました。

またびっくりの2か所なんだけどね。

これすごくやってみたいです。

続けてできたら相当感覚が変わりそうな予感がする。

「わたしもずっと体幹をなんとか鍛えようとしていたんです。

すごく練習して。でも、手足の末端が開発されるとね

おのずと体幹も出来てくることがわかったの」

と教えても頂きました。

末端が大事。

地味が大事。

 

そろそろ私もグラウンディングにがっつりと

取り組むときがやってきたのである。

おいおい泣いている場合ではない。

いや違う、泣きたいなら泣いていいことにしてるんだった。

 

我慢しない!!

我慢しないの私!!!

もー我慢はやめたの!!!!

 

そーいえば、以前、誰かにも言われたっけ・・・

 

「わたしは、あんたはね、好きなんですよ。」

 (おおおお!ほ…ほ…ほ…ほめられた!!!?)

 

「…でもねえ、いかんせん足元が弱い!」

 

(……(^^; )

 

「それから、馬鹿正直はバカ!」

 

(、、、( ;∀;))

 

地味に、足元から見つめなおします。

それから「嘘も方便」を体得したいと思います!

 

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 顔を上げたら、空もなかなかすごかった。

コロッケと静かな日

わがバイブル、『ギーター』一冊を

一日で全部読もう(音読で)ということで

かなり時間がかかったけど、

一緒に旅したことのある人とそのようなことが出来た昨日は

ほんとうに細胞から喜ばしい日になったのです。

そして「ギーターってこんなこと書いてあったのおお~!」

という新大陸発見的な再発見しました(個人的にですが^^;)。

『ギーター』恐るべしね……

 わたしにとっては、あらゆることがギーターから始まった

といっても過言ではないくらいだと思っていて、

この本には恩を感じています。

 

 それで。

ここのところ、落ち込んでいたこともあって

こんな素晴らしい日に心から感謝した。

料理の鎮静作用もすごいが

声に出して本を読むということの鎮静作用もすごい。

『病める舞姫』を読んだ時もそう感じたのだったな…。

 

そして帰って久しぶりにテレビを点けると、

そうだ、今日は原爆の日だったと思い出した。

 

そのあと、「直虎」をちらっと見て、子供の首を抱えて泣くところだけで、

もう涙腺が赤子レベルだから、何故かおいおいと泣けた。

(ちなみに、わたしの最後の会社仕事は

ナオトラの本のプレスリリースを書くことだった。)

 

その後、いろんな雑務をしてから瞑想して、柄にもなく

いろーんなことを想いながら祈ったら、

身体の真ん中から力がざあっと抜けていった。

 

 

わたしはどこに運ばれていくのでしょう。

わからん。

 

わからんが、

いつかYさんが

「その混沌の中に突っ込んでいったら、もっと美しくなる!」

と背中を押してくれたことがあって、すばらしく元気が出たため

それを思い出して、お腹に力を入れたのでした。

 

いろんな出来事に遭遇したものの、ものすごく何かが静か~な一日で

そして肉も玉ねぎも入らないコロッケを

たくさんつくった日でした…

 

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作り途中…

なんだかこれは結構いけたよ

非情さのレッスン

憐みの無い場所について....思い当たる節があった。

 

わたしは、小さいなころ、

一緒にいる人が、みじめな思いをするのが嫌だ

一緒にいる人が、さびしくなるのが嫌だ

というものすごい怖れと言うか、強い気持ちがあった。

(美談ではありません)

 

自分の気持ちについては、

どうにでもなるからどうでもいいやと思っていて、

コントロールできない他人の気持ちがどうなってしまうかが非常に気になった。

これは、コントロールできないものだけに

もんのすごいストレスだった。

 

例えば大晦日の夜。

 

お祖父ちゃんの家に従妹の家族や

私の家族が集合してご飯を食べるのですが

お祖母ちゃんは、ひたすら料理をする。召使のように。

そして、せっかく作ってくれた年越しそばを・・・・誰も食べない(テレビに夢中)。

お祖母ちゃんはそのさまを見ては、非常に憎々しげになっている。

誰に当たったらいいかわからないお祖母ちゃんは、

お祖父ちゃんと喧嘩をし始める。

 

そういうとき……

わたしは、ものすごく困って……心の中で右往左往し始める。

これを、どうしたらいいんだろう・・・・

 

結局そのそばを一人で平らげて

「おばーちゃん、美味し…い」とか言った記憶がある。

正直、もういろんなものを食べた後で、味がしなかったにもかかわらず!!

 

年頃の従妹が「これはまずい、あれは食べたくない」とか平気で言っているのが

不思議でならなかった。

 

お祖母ちゃんがこの世に生きている甲斐を与えなくてはならない。

孫が美味しいと言ったら

すこしはこの夜に料理をした甲斐になるだろう。

おばあちゃんはみじめにならなくて済むだろう。

喧嘩は無くなるだろう。

平和になるだろう!

とかいうことを本気で思っていた。

 

そして、そのあと満腹で苦しくなって、全部、吐いたという・・・(T_T)

(このあたりの完全犯罪的なことが、わたしはほんとにできない)

 

私が「無理をして」食べたことが話題となり

そんなわたしをおじいちゃんは

「人の事が考えられる子だ」

と褒めた。

わたしはますます、こうすべきなんだ、と思った。

 

今書いていて…

このリトルアキコのどうしようもない上から目線にウケておりますが、

本当に、必死でそういうことを想っていたわけです。

苦しかったわけです。

 

その後もそういうことは続き、

学生の頃、友人に

「そんなことしてると、

赤の他人なのにその人の老後の面倒までみなきゃいけなくなるよ、そのうち」

と言われたりしました。

そのときに、はじめて、「あれ?なんかおかしいのかな」と思ったのですが

 

「私がなんとかしなきゃいけない」

「寂しさを感じさせてはいけない」

殊勝な感じに聞こえるけど、そうではなくて、

もっというと、ものすごいエゴだったんだな・・・と^^;。。。

 

その人が寂しいかどうかとか

その人が悲しんでるかどうかとか

そんなの、分からないのに。

自分の手でコントロールできないものまでコントロールしたいと思ったわけで。

「悲しい人だ」とか、「寂しい人だ」というレッテルを

同時になげかけてたんだなと思うわけです。

 

さて。

ナワールになるための条件のひとつ

「憐みの無い場所」まで集合点を移動できるかどうか

っていうのは……

社会的に言われる憐みとか、情とか、そういうものにとらわれないところで

ものごとをありのままに見よ

そして、そのありのままから判断せよ

そこに、何の価値判断も、社会的道徳も、常識も

差しはさんではならない

 

っていうことなんじゃないのかなと…

さっきはっと気づきました。

 

シャーマンが、情にほだされてたら話にならんし。

 

でも、シャーマンだけじゃなくて、普通の人にとっても、

ある部分では、そうなのかもと思ったわけです。

ある意味、何のためにも、誰のためにもならない…と。

 

踊りの師匠が、師匠の師匠のもとをやめたあと、ちょこっと戻った時に

「ああ、ここの非情さがほんとうにありがたい」

としみじみ思った、と言っていたけど、私、わかる、その感覚。

 

だから、あえてはっきり言いますが

「福祉」的な感じがとっても苦手です。

苦手、というか、きらいです。

福祉の場所にいるとたまに、たまらない気持ちになって来ることがある。

「保護してあげよう」という意図を持った時点で、

その人は「保護されるべきひと」になってしまうから。

 

だから、障害の方とのダンスの場を、師匠が

「絶対に、『アート』として、やっていかないとだめ。

福祉になってはいけない」

というのは、ほんとうによく分るのです。

 

集合点が異動して憐みの無い場所に達すると、

合理性と常識の位置は弱まるということだった。

自分の中に古くて暗い、沈黙の部分があるというあの感覚は

理性に先立って存在しているものが見た光景だったのだ。

そうして私の集合点は、ドンファンの変身という圧力のもとで

いつもの内省の場所を捨てざるを得なくなったそのとき、憐みの無い場所に到達した。

「見せかけの同情の世界は、真の意味での残酷さと、利己主義の世界でもあるんだ。そうした世界で言う本物の感情とは、それを感じる者にとっての都合のよい感情だけなのさ」

呪術師にとって、非常さは残酷さだけではない。非常さは、自己憐憫やうぬぼれの対極にあるものだ。非常さとは、平静さのことなんだ」

 

非情さのレッスンはつづく。

憐みのない場所…

荷物は少なく旅せよ乙女♡

ということで。

旅の荷物は最低限。

限りなくぼろぼろな様相で旅するスタイルで

今まで、自分の荷物が不審物に間違われたことはあっても

いまだかつて何の被害にもあったことはございません。

(日本ではしょっちゅう失くしものするのですが、、、)

いつもカリマーのバックパックとあと小さい荷物ひとつくらいで

何とかなってます。

 

が、この度は持たされる荷物なんかがあったりしてー

いつものバックパックでは入らないかもしれなくてーー

でも、新品を買っても狙われるだけだし……

というやきもき状態で、中古を見てみたのですが、どうなんだろう・・・

このくらいくたびれた感のあるやつで行きたいけど、、、(^^; 

 

カリマー・クーガー、なかなかカッコいい・・・

 

うーむ、悩む。運気も背負ってる気がするし。

それにしても、ただ、リュックをさがそうとしただけで

溢れかえる情報に触れると、もうそれだけでうんざりぐったりしてしまって

だめだこりゃ・・・

 

                

            ○○○

あたまが全然働かないんですね~

身体の調子は戻って来たけれども、あたまが働かないので、

気の乗ったことしかできない。

もはやお手上げ状況になってきていて、

それはそれで諦めへの闘志のようなものを感じる(それじゃだめぢゃないか!)

 

「あんたのいっていることは、ちゃんとわかるよ」私はいった。

「ぼくはほんとうにいろんなことを知っている、でも知っていることをしゃべることができない。どう始めればいいのか、わからないんだ」

「もう話しておいたはずだろう、おまえがいま体験していて二重性と呼んでいるのは、おまえの集合点の新しい場所から見た光景なのだ。その力だと、おまえは人間のより古い部分を感じ取れる。そしてその人間のより古い部分が持っている知識が、沈黙の知とよばれるんだ。でも、おまえにとってまだそれは、口には出せない知識なのさ」

「なぜだい?」

「それを口に出すには、とほうもない量のエネルギーが必要だからだ。今の時点では、おまえはそれだけのエネルギーをもっていないからな。

沈黙の知は、誰もがもっている。」

     ……

ドンファン、もっと簡単に言うと、それはどういうことなんだろう?」

「人間は理性の世界とひきかえに、沈黙の知を手放したということだ。理性の世界にしがみつこうとすればするほど、意志はつかみどころがなくなってしまう」

  

『沈黙の力』 はあたまつかってるって感じではなくて

これは読めるのですが、それにしても、ぐさっとくるというか。

人に借りたものなので、二見書房の、

多分かなりふるいやつで、開いたページからなんというか

叡智が湧き上がってくる感じすらする。

 

「呪術師であれ普通の人間であれ、ほんとうに価値のある行動の指針とは、自己イメージへの関心を制限するということに尽きる。…ナワール(注)呪術師のコト)が弟子を相手にするときめざすのは、弟子たちの内省の鏡を破壊することなのさ。……」

集合点は一旦動くと、かならず内省から離れることになり、その結果精霊と繋がる明確な輪を保証する。つまり、そもそも精霊から引き離してしまったのは、内省なのだ、と彼はいった。

 

「ただそれしきの前進がひどく困難なのは、ことを進めるにあたってじつは自分はほとんど何も必要としていないという事実を、たいていの人間が認めたがらないからだ。

わしらは教えや教育、導き、師と言ったものを求めることに慣れ切っている。だからそんなものは必要じゃないといわれても、なかなか信じようとしない。その結果、いらだって疑い深くなり、最後には腹を立てて失望してしまうんだ。

わしらが助けを必要なのだとしたら、それは方法の中にではなく、強調の中にある。誰かわしらに、うぬぼれを切り捨てていかなければならないことを気づかせてくれるものがいたとしたら、それこそが本物の助けだ」

 

>ただそれしきの前進がひどく困難なのは、ことを進めるにあたってじつは自分はほとんど何も必要としていないという事実を、たいていの人間が認めたがらないからだ。

 

なんだか、消沈の理由として、「わたしは結局、小学生になりたてのころの自分あたりの『なんでもなさ』以上に、何かになっている訳でもないし、それ以上に、そこからあれこれと纏ってきたものを、まだまだ、これでもかと、とって行かないといけないんだという、そのことの徒労感、にもある気が何となくしていまして。

実際にそうなんだな、、、っつーか。

こんなにはっきり書いて下さってありがとうございまーす!!!( ;∀;)

的な感じでっす。

 

ふつうの生活環境にある人間はみな、一度は因習の束縛から逃れる機会をもったはずだ、と彼はいった。…それは、恐怖を感じるときや、不健康、怒り、悲しみを感じる時も同じだ。ところが集合点を移動させる機会を持つと、たいてい私たちは恐れを感じるようになる。そこで、宗教的、学問的、社会的背景が一役買うようになる。それらは、私たちが集団の中にふたたび安全に組み込まれることを保証する。つまり、集合点をふつうの生活の位置に戻すということだ。

「おまえはすごく信心深くもなれるんだぞ」

彼は続けた。「集合点の最初の動きを忘れてな。さもなくば理性の限界を超えて突き進むことも出来る。おまえはまだそうした限界の内側にいるのさ」

 

‛ おまえはまだそうした限界の内側にいるのさ’

 

ドンファン先生…(# ゚Д゚)

 

心臓から血が出そうです。

 

とにかく。

 

生きてるだけで丸儲け、だがしかし!!

いっぺん死なないとどうしようもない気もするの!!

教えて、ドンファン

 

「呪術師に言わせてみれば、死は唯一、わしらが相手にする価値のあるものだ。…

「ぼくにいわせると、死ではなくて、生のほうが挑戦だと思うけどな」

「生とは、死がわしらに挑みかかる際にその手段にするプロセスだよ。死は積極的な力だ。」

 

 

・・・ダメだ(=_=) 高度すぎてついてけなくなった、、、

 

体験として知らないとだめなんだとおもうんですけど 

……「憐みの無い場所」っていうのは、

ナワール(呪術師)になるための条件なのらしいのですがね。

なんか、「ナワールになるため」っつっかー

「人間になるため」っつーかな気がして

わたしたちが誤解してるトコのような気が!!(気のせい?)

しておりまして…

いまはうまく書き表せないので、

みなさんに本を読んで教えていただきたいのですが(爆)

咀嚼してみよう・・・とおもいマス。

 

ドン・ファン、教えてぇぇぇ~

 

おやすみなさい (@_@。

Life can be very simple if you want it to be

メキシコ前の最終打ち合わせが終わった。

 

正直、スタッフとしていくのは、自分で踊るよりはるかに神経を使う。

タイミングとか、音量とか光量とかの

現地のスタッフとのすり合わせとか、

怒鳴りあいになってもへこたれない精神とか、

どこまでを譲り、どこまでを主張するかとか

どこで自分を休ませるかとか、

予期せぬハプニングの対処とか……

 

これはもしかすると、自分で踊るよりもはるかに

魂的に磨かれる作業なのかもしれないと個人的には思ってて。

というか、そう思わないとやっていられないわけだけども、

それ以上に、メキシコのハラパに行くのには静かにどきどきしています。

 

 

夜中とか明け方とかに考えがバッとやってくるのですが

朝起きて、、、

「昨日すっごい納得したはずのに!!!

全然何を納得したのか覚えていない!!Σ( ̄ロ ̄lll

ということがしばしばなのですが、先日だけは妙にリアルにこう思った。

 

過去の悔恨も後悔も現在がどうかで善し悪しの判断が変わって来るし

未来の不安は、まだ来ていないのだから、妄想と言うか根拠のないものだし

ということはやはりどうしても、自分で責任が持ってことにあたれるのは

「今」しかないのね・・・・

もはや使い古されてきた感があるけれども、どうしても突き詰めれば

「今ここ」以外にない・・・・!

そして「今」には何の価値判断も無ければ善悪もない。

ただ、どう選択するかがあるだけ・・・?

 

          ○○○○

 

以前、踊りを見に来てくれた高崎の師匠に

「すごい練習するでしょう?」

と聞かれたので

「でもですね、いくら練習しても

良かったときの『あのときの、あれ』を再現しようと追うと

もう、劣化の一途で。だから、『今の、ここ』でやらないとだめみたい・・・」

と言ったら、その瞬間

「そーです!宇宙は一回しか起こらない。」

ってすっごい大きな声でおっしゃったので

(わたしもまわりもビックリしたのですが、)

そのとき、逆に、そっかーと。

「宇宙は一回ずつ『起こる』んだ・・・」と。

だから、同じことは一度も起こらないんだ…と。

その動的な感じに、すごく感動した。

 

さらに、藤山家でも、おふたりが

「ある」が「起こる」んだよね、って話されてたこととか

Rさんが

「過去」と「未来」は神様に任せる

自分が責任を持てるのは「今」だけ

っていってな・・・・とか

思い出して、

今ここに全神経を集中させるっていうことに思いを馳せた。

 

そうすると、それ以外の、過去も未来もそれに属する様々な想いも

現状に対してしている判断めいたものも、好悪のラベリングも

なんだか すべて、幻想なんだなと思う。

唯一リアルなのは、「今」だけなんだと思う。

わたしがアホみたいに落ち込んでいるのも、結局は幻想なんだと(苦しいけど)。

 

          ○○○○

 

そうこうしているうちに見つけたドキュメンタリーが

(光景も音楽も)すばらしくて・・・・

見つけた場所で、ただ、奏でたいから奏でる、っていう…

これって最高のレクイエムでは、と、おもいました。

 

Hang Massive - 'Siberian Voyage' - Documentary

(12:30~) Life can be very simple if you want it to be,
but you can also be very complecated if you would like to be,
so we’d like to choose this simple way of working.
And in that way, things come about very effortlessly and normaly with great result.
 
ハングマッシヴ「シベリアの旅」 
(12分半~)人生はそう望むのであれば、とてもシンプルです。
でも、複雑にすることもできます。もしあなたがそうしたいんだったら。
僕たちはシンプルに働くあり方を選択しました。
その方が、苦も無くでき、結果もすばらしくなったのです。

www.youtube.com